松村一登 (まつむら・かずと)

豊丘村 (とよおかむら)


豊丘村は,河野村 (かわのむら) と神稲村 (くましろむら) が1955年に合併してできた村です。「豊丘」は,一般募集で選ばれた村名で,「『豊』は,村の繁栄を期待するゆたかさを表し,また『丘』は,日本屈指の段丘地帯に発達したことを表している」そうです(「豊丘村公民館発行「とよおか」第530号,2005-4-28)。豊丘村の人口は,発足当時9529人(女4805人,男4724人),2007年12月1日現在では7107人(女3639人,男3468人),世帯数 2022戸です。

現在の豊丘村は,江戸時代末期には,(1) 河野,田村=旗本知久領(阿島),(2) 林=天領(飯島代官所),(3) 伴野,壬生沢,福島=高須藩領(山本村竹佐陣屋)の3つに分かれており,明治維新直後には,高須藩領の伴野が名古屋藩(後,名古屋県)に併合,それ以外が伊那県管轄となります。つまり,明治のはじめの伊那地方は,いったん,大部分が伊那県で,その中に飯田県と名古屋県の管轄地域が点在するという行政区画になるわけですが,すぐに,全部が統合されて筑摩県が成立します。(『豊丘村誌』 745-746)

河野村は,1881年(明14)に,生田村から分離する形で成立しました。「生田」は,1874年(明7),江戸時代以来の河野村を中心とする近隣の6つの村が合併して成立した新しい村につけられた名前です。生田村は,河野村の分離後も存続し,現在は松川町生田として名前をとどめています。15世紀(室町時代)の文献に「河野殿」「生田殿」という豪族の名前がすでに出てくるそうです。「河野」も「生田」も古くからある地元の固有名のようです。(『豊丘村誌』 125, 751-758)

「神稲」 (くましろ) という村名は,1875年(明8)に,田村,林,伴野,福島,壬生沢の5つの村が合併して成立した新しい村の名前として考案されたもので,「神に備える稲を作る田」を意味する 「「くましろ」(神代)という地名は,島根県(石見国),兵庫県(淡路国),福岡県(筑後国)などにあるそうです (『豊丘村誌』 759-763)。「クマ」 は 「カミ」 と関連がある語で,「人目から見えにくい場所,たとえば道や川の曲がりくねったところ,あるいは谷の奥など」 を指し,紀州の 「熊野」 や肥後の 「球磨川」 もこの意味の 「クマ」 に由来する地名なのだそうです (谷川健一 『日本の神々』 岩波新書)。

これに対し,「伴野」は,大化の改新で敷かれた条里制の信濃十郡の1つ伊那郡にあった5つの郷の1つ「伴野郷」に由来する地名とされています。天平時代(8世紀)のころの荘園「伴野庄」の中心も現在の伴野であったとされ,河野も伴野庄に属していたようです(『豊丘村誌』 82, 99-100)。19歳のとき,山本村(現飯田市山本)の竹村家から伴野村の松尾家に嫁ぎ,桜田門外の変の後,国学の平田門人として,50歳を過ぎてから京に上り,幕末の京都で勤皇派を助けた松尾多勢子(1811-1894)は,島崎藤村の 『夜明け前』 に登場します。当時の伴野村は美濃高須藩領,松尾家は名主役を勤める地元の豪族でした。幼少のころから和歌に親しんでいた松尾多勢子は,和歌の素養を武器に,京都に着いて2カ月ほどで宮中に参上できるようになったそうです。

「田村」は,8世紀末に征夷大将軍として蝦夷征伐を行った坂上田村麻呂が,東山道を東進,伊那を通過したときに付いた地名だという伝説があります。座光寺で謀反を起こした嵯峨天皇の皇太子高丘親王を討つべく朝命を受けた田村麻呂が屯営した場所が「田村」と呼ばれるようになったというのです。(『豊丘村誌』 87)

私の生まれたのは,旧河野村の北西の外れ,池康山泉龍院(1438年開山)と いう曹洞宗のお寺の近く (北垣外) です。こどものころ,泉龍院の境内が私の遊び場でした。

豊丘村に関する文献資料


更新日 2011/08/10