南原公平・若林傳(1996)『新版 信州歴史の旅』令文社, pp.210-211

松尾多勢子(1811-94)


幕末~維新期の勤王婦人。山本村(飯田市)から伴野村(豊丘村)へとつぎ,三男四女の母。平田国学の影響で勤王思想になじみ,51歳のとき京都へ出ると,荒っぽい志士たちが一目おく存在となった。よく「正気の歌」を高唱,晩年は家で農事にいそしんだ。

松尾多勢子[まつおたせこ]が伴野[ともの]村(豊丘村)へ嫁入りしたのは,18歳のときだった。漢詩をよくした夫・淳斎[じゅんさい]との間に7人の子供が生まれ,自分も歌を学んでいたが,40歳を過ぎて平田国学派の岩崎長世[いわさきちょうせい]が飯田へきたのと会い,外国船来航におびえる幕末の世情をみて憂国の思いにかられた。その後は,潜行する尊王志士たちをかばいながら,51歳になると夫の了解を得て風雲うずまく京都へ出むいた。髪はくし巻き,黒じゅずの帯に護身の短刀をたばさみ,滞京7ヵ月,志士の会合に現われ争論をおさめたり,幕府のスパイを見破って詰め腹を切らせたりした。2回目の上京は慶応[けいおう]4年(明治元年)で,岩倉邸に起居し同士から「岩倉の周旋ばあさん」などど陰口されながらも,徳川の大政奉還まで人びとと議論をたたかわせた。

明治14年(1881),71歳の多勢子は新政下の東京を見に行った帰りに,むすこが勧めるカゴをことわり,下駄[げた]ばきで歩き通した。それからは平凡なご隠居さんとして,養蚕や歌に親しんですごした。83歳で他界,山のような弔電や弔辞が弔問者をびっくりさせた。墓は豊丘村伴野に,歌碑が飯田市今宮公園にある。


更新日 2005/07/03