『言語生活』1985年4月号(No.400)

マリ(チェレミス)語事始

モスクワから東へ 750 km ほどのところに,カザンという町がある。モスクワとレニングラードの中間あたりの高原に源を発してほぼ西から東へと向かって流れて来たボルガ川は,カザンの付近で流れの方向を90度かえて,南方のカスピ海へと向かう。このボルガ川の屈曲部の周辺は,ウラル系のマリ(チェレミス)人・モルドビン人,ウドムルト人や,チュルク系のチュワッシュ人・タタール人,バシキール人などが住む多民族地域である。マリ人はこのボルガの屈曲部の北側にあるマリ自治共和国を中心に住んでおり,マリ語を母語としているのは,1979年のソ連の国勢調査によると約54万人である。チェレミス (Cheremis) というのは他称で,今でもソ連の外で出される文献では普通に用いられるが,ソ連では,自称のマリ(mari)を用いるのが正式となっている。「マリ」という語には,《夫,男》という意味があって,印欧語 (インド=イラン語派) からの古い借用語と考えられている。フランス語の mari 《夫》や,英語の marry《結婚する》とは遠い親戚にあたる語ということになるわけだが,それにしても語形がよく似ていすぎるような気がしないでもない。ついでながら,アフリカのマリ共和国は,カタカナで書くと同じく「マリ」だが,Mali なので混同してはならない。

私がマリ語のネイティブ・スピーカーにはじめて出会ったのは,フィンランドのトゥルクという古都で国際フィンーウゴル学者会議が開かれた1980年8月のことである。フィン=ウゴル学 (ドイツ語 Fennougristik) というのは,フィン=ウゴル諸民族に関する研究一般をさすことばで,この国際学会は,フィン=ウゴル諸民族の主要な居住国であるフィンランド,ハンガリー,ソ連の三カ国が,1960年以降5年毎にもち回りで開いている学会である。フィン=ウゴル諸語の勉強をしようと思って1978年の8月にフィンランドにやって来た私にとっては,フィン=ウゴル諸民族が残らず代表されているこのような国際学会に参加できることだけでも夢のような出来ごとであり,留学を一年間延長した収穫は大きかった。しかし,私はただ参加するだけでは満足できずに,なんとかマリ語のネイティブ・スピーカーに直接会ってみたくてしかたがなかったので,トゥルク大学のマリ語の専門家A・アルホニエミ教授に手紙を書いてみることにした。学会に参加するマリ人の言語学者とアルホニエミ教授が何らかの会合をもつに違いないので,ひょっとしたら見学させてくれるかもしれたいと思ったからである。この作戦はうまくいき,私はマリ人の言語学者二人とことばをかわすことができた。ひとりは,マリ語の副動詞の研究で有名なイサンバエフという人だが,もう一人は名前を忘れてしまった。ことばをかわしたと言っても,マリ語の勉強をはじめて半年余りの私の口からマリ語の文が出てくるはずがなく,ロシア語の会話であったはずである。私がロシア語をこの当時話したというのは,今考えてみてちょっと信じられない気もするが,英語やフィンランド語は通じない人たちだから,私はやっばりロシア語を使ったに違いない。その時の応答で今でもはっきりと覚えているのは,イサンバエフさんに年齢と結婚しているかどうかを聞かれて,私が「27歳で独身である」と答えたところ,「私は28歳で結婚した。君も来年あたりは結婚するよ」と言われたことである。この予言は大きくはずれてしまった。

その年の9月上旬から11月中旬まで,私はソ連のエストニアに滞在した。エストニアの首都タリンの郊外の知人の家に2カ月間居候してよろしいというビザがおりていたからである。マリ語のインフォーマント調査をしたのはこの時である。インフォーマント調査と言えば聞こえはいいが,実際は,マリ語の文語の資料をテープに吹き込んでもらう作業が中心であった。マリ語に関する研究よりは,ネイティブ・スピーカーについてマリ語の勉強をしてみたいというのが本当の目的で,調査の準備らしい準備もなかったというのが本当のところである。それでも,マリ語の関係節および従属節一般に関する調査は,不十分ながらも行なうことができ,学会で口頭発表もしたし,論文の形で発表もすることができたのは幸いであった。インフォーマントになってくれたのは,当時30代半ばの言語学者アナトリー・ククリンで,エストニアのタルト大学に学位をとるための国内留学をしていたのを,タルト大学のフィン=ウゴル学科のP・アリステ教授に頼み込んで,無理やり私に協力してもらったものである。彼は,バシキール自治共和国のウーファの近くに住むマリ人の方言の音声学的研究で昨年学位をとった。彼とは,今でも文通があり,クリスマスカードを交換するほか,ときどき手紙を出して,新聞や本を送ってもらったりしている。今年の7月には,国際フィン=ウゴル学者会議がソ連で開かれるので,アナトリーに再会できるのが楽しみである。今度はちゃんとした準備をした上でインフォーマント調査をしたいと考えているが,今のところ,私が学会に参加することができるかどうか,ソ連から連絡が来ていない。

私は今までにいろいろな外国語を勉強する機会があったが,多少なりとも使えるようになった言語の場合をふりかえってみると,いずれも,特定のネイティブ・スピーカーと個人的に知り合いにたり,その人に好感を抱いたという経験があったように思う。母語以外の言語を学ぶことは,自分が住んでいる概念の世界がいかに自分の母語の構造に依存しているかに気づくことである。私と同じ時間に同じ場所にいて,同じものを見ているのに,私とは違う概念の世界に生きている人が現実にいるということほど私をわくわくさせることがらはない。私にとって「(枝を)折る」ことと「(花びんを)こわす」ことが異なった動詞で表わすべきことであっても,その人にとっては同じ動詞で表わすことであったりするし,あるいは,その人は,人間も牛もウグイスもコオロギもみんな「なく」ことがあるのを信じないかもしれないからである。私はこういった知的な緊張感を求めて外国語の勉強をしてきたのではないかと思うことがある。

(まつむら・かずと 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助手 フィン=ウゴル諸語)

更新日 2003/05/10 — © 1985-2003 by Kazuto Matsumura