松村一登 (まつむら・かずと)

研究者としての経歴


私は,通算すると6年ほどフィンランドのヘルシンキに住んだことがあります(1978年8月~1981年5月,1985年3月~1985年9月,1987年8月~1989年3月)が,最近は短期の滞在ばかりなので,勝手が違うことも多くなりました。ヘルシンキでいつもお世話になるのは,フィンランド内国語研究所の図書館ですが,ここは,ウラル諸語関係の文献の宝庫です。この研究所は,ウラル諸語の音声データも豊富に所蔵しています。

エストニアのタリンには,ソビエト時代,ペレストロイカのまっただなかの1987年11月から翌年4月までの半年間,タリン教育大学の寮に住んで,エストニア語学科の授業を聴講させてもらったことがあります。このときの私の受入れ要請が,モスクワの高等教育省経由でタリンに行ったことを示すロシア語の手紙のコピーが,当時私の指導教官だった先生から最近になって送られてきました。歴史の大きな移り変わりを肌で感じる「歴史的資料」です。

エストニア語の研究は,教育大学のほかに,同じタリンのエストニア語研究所(旧「言語文学研究所」)とタルト大学エストニア語学科で行われています。1994年2月~4月の3か月間をのぞくと,私は,タルトには本格的に住んだ経験がありません。

私が,エストニアでよく利用する図書館は,タリンでは,タリン教育大学付属の学術図書館バルト関係資料室,タルトでは,文学博物館の図書資料室です。どちらも,エストニア語の歴史的な文献がよく揃っています。学術図書館は,もともとエストニア科学アカデミー付属学術図書館と呼ばれていましたが,2004年にタリン教育大学の管轄下に移りました。

1983年4月から1995年3月までの12年,東京外国語大学のアジア・アフリカ言語文化研究所(通称「AA研」)に勤務しました。この研究所は,言語学のほかに,歴史学と文化人類学の専門家が,アジア・アフリカ地域の言語・文化・歴史の研究を行っているユニークな研究所です。ここで,私は「フィンランド語」(1983)と「エストニア語」(1991)の夏期集中講座(言語研修)を担当しました。AA研は,かつては東京都北区西ヶ原にありましたが,東京外国語大学の移転にともない,今は東京都府中市にあります。

1995年4月からは,東京大学に勤務しています。東京大学に移って最初に所属した研究室は,「東京大学文学部 附属文化交流研究施設研究施設 東洋諸民族言語文化部門」という長い名前で,通常は「東洋言語研究室」と呼ばれていました。1998年,この研究室が文学部の附属から大学院人文社会系研究科の附属となり,正式名称も「東京大学大学院人文社会系研究科 附属文化交流研究施設研究施設 東洋諸民族言語文化部門」に変わりました。さらに,この東洋言語研究室は 2004年4月に改組されて,人文社会系研究科の「言語動態学講座」と名前が変わり,現在に至っています。

東洋言語研究室時代(9年間)の私の仕事の1つは,危機言語のデータセンターの運営で,たとえば,「危機言語ホームページ」として知られている Web サイトのコンテンツは,日本語ページ・英語ページとも,2001年頃までほとんど私が作成していました。

言語動態学講座での私の研究・教育のテーマの柱の1つは「言語資料学」です。「言語資料学」というのは私の造語で,実際に使用された言語の姿をできるかぎり情報が失われないように記録・蓄積し,実証的な研究の基礎をつくるための研究です。「コーパス言語学」と呼んでもいいのですが,「コーパス言語学」というと,英語や日本語のような大言語を対象とする大規模な研究を連想しがちなので,少数言語・危機言語のドキュメンテーションへの貢献を強調するために,一線を画す意味で,あえて別の呼び方をしています。


更新日 2005/02/27