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『南信州新聞』 2002/1/1

古代の伊那谷の馬 (抜粋)


古代の伊那谷―その真ん中を,畿内 (大和) と東北地方を結ぶ大動脈・東山道が通り,古くから多くの人が住んでいた。しかし,その伊那谷が全国の歴史の上でも大きな役割を果たすようになったのは,古墳から埋葬馬が相次いで出土する紀元5世紀頃と推定される。

飯田市教育委員会の小林正春さん (考古学) は,時代背景を次のように推理する。

「大和王権の全国統一に力を発揮したのは,馬と鉄であったといわれる。鉄は武器作りのために,馬は,物資を運んだり,情報伝達の手段として,当時の軍隊になくてはならないものだった。馬と鉄は,当時の最先端技術であり,当時の豪族 (首長) たちは,この2つを手に入れようとして躍起になっていたはずだ」

2つの最先端技術のうち,馬の生産拠点となったのが,伊那谷―特に飯田下伊那だったと見られている。豊富な天竜川水系の水が得やすく,段丘上では馬が逃げにくいという,飼育上の有利な環境があった。

伊那谷は,日本有数の馬の産地として発展し,大和朝廷の成立後も,軍馬の供給基地として中央の政治と深い関係を持ち続けた。大和朝廷のゆるしがなければ,建造できなかった5世紀の前方後円墳が飯田下伊那で数多く見られることも,「当時の中央政府が伊那谷を,馬の産地として重要視していたことのあらわれ」 とされる。

これに関連して注目されるのが,10世紀の文献である 「延喜式」 に記載が見える 「信濃十六牧 (まき)」 の存在だ。当時の信濃国は,こうした官牧 (かんぼく=官営の牧場) を背景に,年間80頭という,全国最大の貢馬国となっていた。

先の大塚さんは,「信濃自体に馬の需要があったことはいうまでもない」 とした上で,その背景にあると見られる中央政府からの 「要請」 を指摘する。

現代人が想像する以上に,馬の有用性 (運搬,流通,情報伝達における) が5世紀には知られており,人の移動も激しかったとし,「大和政権は,特に東国支配に馬が必要と考えていたのではないか」 と指摘する。

すなわち,大和政権の側が,伊那谷の首長らに馬を飼育させていたとする考えだ。

一方で,伊那谷の場合,近年相次いで見つかった埋葬馬のほかに以前から,鞍 (くら) や鐙 (あぶみ) などの馬具の出土例の多さが注目されてきた。朝廷があった大和の場合,出土する馬具の量は,長野県全体のわずか5分の1に過ぎない。

そうした事実を踏まえて,こうした馬の飼育問題について考古学者の森浩一さんは,「大和政権が馬を伊那谷で飼育させたと考えるより,伊那谷自体に馬の需要があり,それで相当な量の馬具を地元消費していたのではないか。そのため,多くの馬具が伊那谷で見つかっている可能性もある」 と指摘している。


更新日 2002/01/04